2017年12月27日
タイもかなわぬ夏のスズキのアライ
タイもかなわぬ夏のスズキのアライ
秋から冬に鳴る雷を山陰地方では、「スズキ(鱸)落とし」と呼んでいる。
この雷が鳴ると島根県の宍道湖(しんじこ)から海へスズキが逃げ込むという。
スズキは日本各地の沿岸、内湾にすみ、春から夏には浅瀬の磯、川や湖にも入り込み、
秋になると産卵のため河口へやって来る。
スズキは夏の代表魚である。
夏の魚の料理といえば清涼感ある”アライ”であるが、スズキも例外ではない。
夏のスズキのアライは、タイ(鯛)よりも味が上だともいわれる。
もともとスズキとは「すすきたる」という意味をもち、
すすぎ洗いしたような美しいスズキのアライが夏に最も似合うということなのだろう。
冬のスズキはお腹に卵を抱え「腹太スズキ」と呼ばれ、味は夏とくらべようのないほど落ちる。
しかし、島根県松江地方には「奉書焼き」という寒スズキを使った有名な料理がある。
宍道湖のスズキを何枚ものぬれた奉所書で包み、炭火で焼いた昔からの名物料理がある。
かっては産卵後の落ちスズキを使ってようだが、現在は成魚になる前のフッコを料理している。
昔、松平不舞味公(ふまいこう)がこの奉書焼きを食べたところ、大変気に入り、
以後松平家へ寒スズキを献上していたという。
スズキはタイ(鯛)につぐめでたい魚とされてきた。
『へいけものがたり』につぎのような話がある。
平清盛が安芸守(あきのかみ)だったころ、伊勢から船で熊野神社へ参詣する途中の海で、
突然、大きなスズキが舟に飛び込んできた。
すると案内人が「「昔、周の武王の船に白魚(スズキといわれる)がとびこんできて、その後、
つぎつぎと戦に勝ち進んだという。
これは吉兆で、熊野権現の後利益だから食べるように」と清盛にすすめた。
清盛は大変喜び、さっそくそのスズキを料理して食べたところ、それ以来運がつき、太政大臣にまで出世したのである。
byチェリー号船頭の雑学
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秋から冬に鳴る雷を山陰地方では、「スズキ(鱸)落とし」と呼んでいる。
この雷が鳴ると島根県の宍道湖(しんじこ)から海へスズキが逃げ込むという。
スズキは日本各地の沿岸、内湾にすみ、春から夏には浅瀬の磯、川や湖にも入り込み、
秋になると産卵のため河口へやって来る。
スズキは夏の代表魚である。
夏の魚の料理といえば清涼感ある”アライ”であるが、スズキも例外ではない。
夏のスズキのアライは、タイ(鯛)よりも味が上だともいわれる。
もともとスズキとは「すすきたる」という意味をもち、
すすぎ洗いしたような美しいスズキのアライが夏に最も似合うということなのだろう。
冬のスズキはお腹に卵を抱え「腹太スズキ」と呼ばれ、味は夏とくらべようのないほど落ちる。
しかし、島根県松江地方には「奉書焼き」という寒スズキを使った有名な料理がある。
宍道湖のスズキを何枚ものぬれた奉所書で包み、炭火で焼いた昔からの名物料理がある。
かっては産卵後の落ちスズキを使ってようだが、現在は成魚になる前のフッコを料理している。
昔、松平不舞味公(ふまいこう)がこの奉書焼きを食べたところ、大変気に入り、
以後松平家へ寒スズキを献上していたという。
スズキはタイ(鯛)につぐめでたい魚とされてきた。
『へいけものがたり』につぎのような話がある。
平清盛が安芸守(あきのかみ)だったころ、伊勢から船で熊野神社へ参詣する途中の海で、
突然、大きなスズキが舟に飛び込んできた。
すると案内人が「「昔、周の武王の船に白魚(スズキといわれる)がとびこんできて、その後、
つぎつぎと戦に勝ち進んだという。
これは吉兆で、熊野権現の後利益だから食べるように」と清盛にすすめた。
清盛は大変喜び、さっそくそのスズキを料理して食べたところ、それ以来運がつき、太政大臣にまで出世したのである。


2017年12月23日
土用の丑の日に何故ウナギを食べるか
土用の丑の日に何故ウナギを食べるか
土用の丑の日とウナギ(鰻)は、まったく無関係である。
江戸時代のなか場、学者の平賀源内がウナギ屋の依頼で、店頭に「本日土用の丑の日」と書いた。
昔から夏やせにはウナギがいいといわれていたことと、その日が土用(立春の前の18日間)の丑の日であったということからなのだが、
有名な先生がお書きに成ったこの日のウナギには、なにかあるにちがいない・・・と人々の関心を集め、
大いに売れたという話がはじまりだとする説がある。(源内でなく大田色蜀山人(しょくさんじん)であるという説もある)
もうひとつ、春木屋善兵衛の話がある。
文政年間の夏、ウナギ屋である春木屋善兵衛は、藤堂の殿さまから大量の蒲焼きの注文を受けた。
土用の子の日、丑の日、寅の日の三日間にわたりウナギを焼き、それぞれを床下に貯えて一週間後に出してみると、
丑の日に焼いたウナギだけが悪くなっていなかった。
そこで丑の日の蒲焼きがもっともよいとして、殿さまに届け、それを店の看板にしたというもの。
当時、「う」のつくものを食べると夏まけしないと信じられ、ウメ、ウリなどが食べられていた。
丑の日のウナギもそれに便乗しようとした、ウナギ屋の陰謀のような気もしてくる。
いずれにしても、土用の丑の日のウナギだからと行って、特別においしいとか、体にいいというわけではないのだ。
この蒲焼き、文化・文政以前はウナギをさかず、一尾そのままを口から竹串を刺して焼いていた。
その形が蒲の穂に似ているため、蒲焼きといわれるようになったともいう。
蒲焼きが丼として登場したのは、芝居小屋を経営していた大久保令助が発端だった。
彼は大のウナギ好きで、毎日蒲焼をとり寄せていた。
当時は、ウナギがさめないようにヌカが使われていたが、このヌカが食べるときに邪魔だった。
そこで、あたたかいご飯の間に蒲焼をはさんで入れたら、蒲焼きもさめずにおいしく食べられた、というのがうな丼のはじまりである。
彼が有名人であったこともあり、このうな丼はあっという間に広まったのである。
一般に広まったとはいえ、当時、そばの根の十倍もしたウナギを食べるのは駕籠に乗るのと同じ贅沢といわれた。
ウナギ屋の店頭に立ち、蒲焼きの匂いでご飯を食べていた人もさぞかし多かったことだろう。
byチェリー号船頭の雑学
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土用の丑の日とウナギ(鰻)は、まったく無関係である。
江戸時代のなか場、学者の平賀源内がウナギ屋の依頼で、店頭に「本日土用の丑の日」と書いた。
昔から夏やせにはウナギがいいといわれていたことと、その日が土用(立春の前の18日間)の丑の日であったということからなのだが、
有名な先生がお書きに成ったこの日のウナギには、なにかあるにちがいない・・・と人々の関心を集め、
大いに売れたという話がはじまりだとする説がある。(源内でなく大田色蜀山人(しょくさんじん)であるという説もある)
もうひとつ、春木屋善兵衛の話がある。
文政年間の夏、ウナギ屋である春木屋善兵衛は、藤堂の殿さまから大量の蒲焼きの注文を受けた。
土用の子の日、丑の日、寅の日の三日間にわたりウナギを焼き、それぞれを床下に貯えて一週間後に出してみると、
丑の日に焼いたウナギだけが悪くなっていなかった。
そこで丑の日の蒲焼きがもっともよいとして、殿さまに届け、それを店の看板にしたというもの。
当時、「う」のつくものを食べると夏まけしないと信じられ、ウメ、ウリなどが食べられていた。
丑の日のウナギもそれに便乗しようとした、ウナギ屋の陰謀のような気もしてくる。
いずれにしても、土用の丑の日のウナギだからと行って、特別においしいとか、体にいいというわけではないのだ。
この蒲焼き、文化・文政以前はウナギをさかず、一尾そのままを口から竹串を刺して焼いていた。
その形が蒲の穂に似ているため、蒲焼きといわれるようになったともいう。
蒲焼きが丼として登場したのは、芝居小屋を経営していた大久保令助が発端だった。
彼は大のウナギ好きで、毎日蒲焼をとり寄せていた。
当時は、ウナギがさめないようにヌカが使われていたが、このヌカが食べるときに邪魔だった。
そこで、あたたかいご飯の間に蒲焼をはさんで入れたら、蒲焼きもさめずにおいしく食べられた、というのがうな丼のはじまりである。
彼が有名人であったこともあり、このうな丼はあっという間に広まったのである。
一般に広まったとはいえ、当時、そばの根の十倍もしたウナギを食べるのは駕籠に乗るのと同じ贅沢といわれた。
ウナギ屋の店頭に立ち、蒲焼きの匂いでご飯を食べていた人もさぞかし多かったことだろう。


2017年12月16日
ハモは梅雨の水を飲んでうまくなる
ハモは梅雨の水を飲んでうまくなる
関西、とくに京料理に欠かせないのがハモ(鱧)である。
ハモの旬は夏で六月の梅雨どきから、初秋までである。
ハモは「梅雨の水を飲んでうまくなる」といわれ、とくに卵を抱かえた梅雨時のハモは、卵巣、肝臓などが数段おいしくなる。
同じ仲間であるウナギ(鰻)やアナゴ(穴子)は上半身より下半身が美味であるが、ハモは下半身がやせているため、上半身が美味である。
ハモは暖海性の魚で、明石沖や瀬戸内海が生産地である。
関東より以北ではほとんどとれないため、関東ではなじみが薄いが、関西の人はタイ(鯛)についで、ハモをこよなく珍重する。
ハモはウナギ、アナゴより大きく、全長二メートルにも達する。
顔つきは、ウツボ(?魚)に似て形相は悪く、鋭い歯をを持っており、夜になると泥の中から出てきて、エビや魚を食べる。
首を切り取られた後も喰いついたりする魚なので、「食(は)む」が語源だという説もある。
ハモは「祭りハモ」ともいわれ、大阪、京都の夏まつりにハモ料理はつきものである。
とくに京都の祇園祭りは別名「ハモ祭り」ともいい、祭りのごちそうはハモが主役であることからも、
いかにハモが京の人々に珍重されているかがうかがえる。
ハモの調理法で「骨切り」というのがる。
ハモには小骨が多く、これが食べる時にじゃまにならないよう、ハモを開いてから、肉に細かく包丁を入れるのである。
皮まで切ってはだめで、「ハモは一寸を24に包丁する」ところまでくれば、名人芸といえるようだ。
ハモの料理としては、チリづくり、照り焼き、酢のもの、ハモ鮨、吸い物などがある。
吸い物のひとつに、「牡丹ハモ」と呼ばれるものがある。
骨切りしたハモに葛粉(くずこ)をまぶし、塩ゆでにして使うもので、包丁でいれたハモの切れ目が吸い物のなかで、
白い牡丹の様に広がる。
また、ハモの皮を細く刻んで揚げたものをきゅうりと三杯酢であえた料理もある。
byチェリー号船頭の雑学 
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関西、とくに京料理に欠かせないのがハモ(鱧)である。
ハモの旬は夏で六月の梅雨どきから、初秋までである。
ハモは「梅雨の水を飲んでうまくなる」といわれ、とくに卵を抱かえた梅雨時のハモは、卵巣、肝臓などが数段おいしくなる。
同じ仲間であるウナギ(鰻)やアナゴ(穴子)は上半身より下半身が美味であるが、ハモは下半身がやせているため、上半身が美味である。
ハモは暖海性の魚で、明石沖や瀬戸内海が生産地である。
関東より以北ではほとんどとれないため、関東ではなじみが薄いが、関西の人はタイ(鯛)についで、ハモをこよなく珍重する。
ハモはウナギ、アナゴより大きく、全長二メートルにも達する。
顔つきは、ウツボ(?魚)に似て形相は悪く、鋭い歯をを持っており、夜になると泥の中から出てきて、エビや魚を食べる。
首を切り取られた後も喰いついたりする魚なので、「食(は)む」が語源だという説もある。
ハモは「祭りハモ」ともいわれ、大阪、京都の夏まつりにハモ料理はつきものである。
とくに京都の祇園祭りは別名「ハモ祭り」ともいい、祭りのごちそうはハモが主役であることからも、
いかにハモが京の人々に珍重されているかがうかがえる。
ハモの調理法で「骨切り」というのがる。
ハモには小骨が多く、これが食べる時にじゃまにならないよう、ハモを開いてから、肉に細かく包丁を入れるのである。
皮まで切ってはだめで、「ハモは一寸を24に包丁する」ところまでくれば、名人芸といえるようだ。
ハモの料理としては、チリづくり、照り焼き、酢のもの、ハモ鮨、吸い物などがある。
吸い物のひとつに、「牡丹ハモ」と呼ばれるものがある。
骨切りしたハモに葛粉(くずこ)をまぶし、塩ゆでにして使うもので、包丁でいれたハモの切れ目が吸い物のなかで、
白い牡丹の様に広がる。
また、ハモの皮を細く刻んで揚げたものをきゅうりと三杯酢であえた料理もある。


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2017年12月14日
端午の節句になぜこいのぼりなのか
端午の節句になぜこいのぼりなのか
”この子が立身出世をするように"・・・
というのが、こいのぼりの意味するところである。
昔からコイ(鯉)は出世魚といわれているが、このいい伝えの起こりは中国にある。
黄河の上流に竜門峡という急流の場所があり、そこにすんでいるコイがこの急流をのぼれば、竜になれるという伝説があった。
これを”登竜門”といい、コイが立身出世につながる縁起のいい魚とされたのである。
この伝説は日本にも伝わり、吉野川(奈良県)の上流地域に”竜門”という名までつけたりした。
そして、日本でもコイを出世できるめでたい魚とし、五月五日の端午の節句にこいのぼりを立て、
男子の成長を祝う習慣になったわけである。
このコイの幟(のぼり)は江戸時代の末ごろから武家で使われ始め、以前は武者絵が主流であった。
大正の頃より、一般でもコイの幟が立つようになったのである。
また、かっては生きたコイを初節句に送る風習等も地方には見られた。
こいのぼりのコイの数は、男の子が生まれるたびに増やしていくというのが一般体であるが、なかには、
多ければ多いほど出世すると十以上ものコイをはためかすところもあったようだ。
また、五月人形のなかに、「金太郎のコイ抱き」がある。
金太郎は元気で丈夫な男の子を意味し、丈夫で立身出世を、といった親の願いがこめられているわけである。
byチェリー号船頭の雑学
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”この子が立身出世をするように"・・・
というのが、こいのぼりの意味するところである。
昔からコイ(鯉)は出世魚といわれているが、このいい伝えの起こりは中国にある。
黄河の上流に竜門峡という急流の場所があり、そこにすんでいるコイがこの急流をのぼれば、竜になれるという伝説があった。
これを”登竜門”といい、コイが立身出世につながる縁起のいい魚とされたのである。
この伝説は日本にも伝わり、吉野川(奈良県)の上流地域に”竜門”という名までつけたりした。
そして、日本でもコイを出世できるめでたい魚とし、五月五日の端午の節句にこいのぼりを立て、
男子の成長を祝う習慣になったわけである。
このコイの幟(のぼり)は江戸時代の末ごろから武家で使われ始め、以前は武者絵が主流であった。
大正の頃より、一般でもコイの幟が立つようになったのである。
また、かっては生きたコイを初節句に送る風習等も地方には見られた。
こいのぼりのコイの数は、男の子が生まれるたびに増やしていくというのが一般体であるが、なかには、
多ければ多いほど出世すると十以上ものコイをはためかすところもあったようだ。
また、五月人形のなかに、「金太郎のコイ抱き」がある。
金太郎は元気で丈夫な男の子を意味し、丈夫で立身出世を、といった親の願いがこめられているわけである。


2017年12月08日
春の「子持ちブナ」は寒ブナよりうまい
春の「子持ちブナ」は寒ブナよりうまい
水ぬるむ春に成ると、フナ(鮒)は冬眠から覚め、エサを求めて活動しはじめる。
「釣りはフナに始まってフナに終わる」などといわれるが、産卵準備のため川の本流から支流、
小川などに移動してくるフナを、釣り人たちは、春の「野っ込みブナ」と呼ぶ。
フナは暖かい水を好むので、雪どけなどで急に水が冷たく成ると、驚いて小川などに逃げ込んだりまするという。
フナは「寒ブナ」といって、冬にとれた物を、かっては寒中見舞いなどに使っていたようである。
しかしよくとれる四、五月ごろの「子持ちブナ」が味のうえではうまいとされている。
フナは、動きまわる習性を持ち、秋になり水温が下がってくると、春とは逆に池、沼、小川などから本流の大きい川へ移っていく。
これを秋の「落ブナ」という。
フナの種類は大きく分けるとマブナ(真鮒)とヒラブナ(平鮒)に分けられ、マブナにはキンブナ(金鮒)、ギンブナ(銀鮒)など、
その体の色で呼び名が違うものがある。
ヒラブナはその名のとおり、マブナより平たく、ヘラブナとも呼ばれる。
琵琶湖特産のゲンゴロウブナ(源五郎鮒)は大型のヒラブナの仲間である。
室町時代、錦織(にしきごり)源五郎という琵琶湖の漁業の頭人がいた。
彼が毎年、琵琶湖でとれるフナを将軍に献上していたことからゲンゴロウブナと名づけられるようになったといわれる。
このフナは秋になるとヒレが紅色になるので、そのころのゲンゴロウブナを「紅葉ブナ」という。
フナ料理には、稚魚のスズメ焼き、甘露煮、アライなどがあるが、琵琶湖周辺の名産であるフナ鮨は昔から有名。
byチェリー号船頭の雑学
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水ぬるむ春に成ると、フナ(鮒)は冬眠から覚め、エサを求めて活動しはじめる。
「釣りはフナに始まってフナに終わる」などといわれるが、産卵準備のため川の本流から支流、
小川などに移動してくるフナを、釣り人たちは、春の「野っ込みブナ」と呼ぶ。
フナは暖かい水を好むので、雪どけなどで急に水が冷たく成ると、驚いて小川などに逃げ込んだりまするという。
フナは「寒ブナ」といって、冬にとれた物を、かっては寒中見舞いなどに使っていたようである。
しかしよくとれる四、五月ごろの「子持ちブナ」が味のうえではうまいとされている。
フナは、動きまわる習性を持ち、秋になり水温が下がってくると、春とは逆に池、沼、小川などから本流の大きい川へ移っていく。
これを秋の「落ブナ」という。
フナの種類は大きく分けるとマブナ(真鮒)とヒラブナ(平鮒)に分けられ、マブナにはキンブナ(金鮒)、ギンブナ(銀鮒)など、
その体の色で呼び名が違うものがある。
ヒラブナはその名のとおり、マブナより平たく、ヘラブナとも呼ばれる。
琵琶湖特産のゲンゴロウブナ(源五郎鮒)は大型のヒラブナの仲間である。
室町時代、錦織(にしきごり)源五郎という琵琶湖の漁業の頭人がいた。
彼が毎年、琵琶湖でとれるフナを将軍に献上していたことからゲンゴロウブナと名づけられるようになったといわれる。
このフナは秋になるとヒレが紅色になるので、そのころのゲンゴロウブナを「紅葉ブナ」という。
フナ料理には、稚魚のスズメ焼き、甘露煮、アライなどがあるが、琵琶湖周辺の名産であるフナ鮨は昔から有名。

